galleryに「romantic(bitter)」を追加しました。
写真は展示のときにはお蔵入りになってしまった海の写真です。
昨年末の個展の際に、観にきてくださった方々にいただいた感想で「(変わらないけど)何か変わった」というのがあったのだけど、
ああやってずらっと並ぶ画面でみると、確かに何か変わったなあと昨晩改めて自分で思った。
わかりやすく色の感じがまず違うのだけど、それ以外にも自分の変化がいろいろ出ているのかな。
私はもう七年目(!)という長い間、ほぼ写真をやったことがない若い人たちにアナログでのモノクロ写真の撮影からプリントまでと、出される課題についての考え方等を教えたりしている。
「教える」という言葉が、この仕事を通じて私が感じているものと一致しているとは思っていない。たくさんのことを私は教わっているから。
学生たちが今まで気づかなかったことに気づくことで今いる世界を見る目線ががらっと変わる瞬間や、うまくいかなくても根気強く取り組む事で思考も技術も成長する様子などを近くで感じることができるのはとても面白く、刺激になり自分もがんばろうといつも思う。
毎年同じことの繰り返しだけど、繰り返しの中で毎年新しい発見と出会えるこの仕事が大好き。
長年この仕事に携われていることは、ほんとうにありがたく幸せだと思う。
毎年毎年、と言えるほど長い間、毎日感じていることと、その長い間自分の中でもやもやとし続けているものと、いろんな言葉にはできないことがなんとなく噛み合い始めた、かも。というのが最近の状態だと思う。
やればやるだけ見えてくることがあって、それはやればやるほどもっともっと深く強くやり続けなければその先には行けないということにやっと向かい合うことができはじめたのが「romantic (bitter)」の制作だった。
だからきっと今までとは何か違うのでしょう。
作品として出しているものは、いつだって今の自分の精一杯だと思う。
だけど、まだまだやれるといつも思う。だから悔しいし、また制作したいと思う。
満足することはないと思う。
けれど、写真で制作を始めたときからずっと変わらないテーマみたいなものが揺るがずに今も中心にあり続けていること、私にとって自分の見たいものの気配を追いかけているこの感じは、ほかのどんなことでも決して代わりはできない、良いも悪いも全てひっくるめての「快感」なんだろうなと今展示中の写真たちをプリントしているときに思った。
世の中はすごく大変なことになっていて、なんて言葉にしたらいいのかわからない。
毎日のニュースで不安は募るばかりだし、政治にはあきれてしまう。放射能は怖い。
私はただのひとりの未熟な人間なので、自分のことにしか責任は取れない。毎日しっかり自分を生きるしかできることはないと思う。自分に余裕がないと思いやりだって持てない。周りの人を大切に思うためにそういられたら、と思う。
ちゃんとごはんを食べたり、しっかり寝たり、散歩をしたり、公園に行ったり、映画をみたり、美術館へ行ったり、本を読んだり、好きなひとたちと楽しくおしゃべりをして笑ったり、一晩中お酒を飲んではしゃぎすぎて二日酔いになったとしても、そういうことを大切に思っていたい。
自分の良いと思うことに誠実にいるのは難しいときだってたくさんあるけれど、なるべくそうやって過ごしたい。
私は自分には素直だけど、不器用ででこぼこしているから周りに迷惑かけちゃったり時には誰かを傷つけることもあると思う。うまくできない部分も含めて、ちゃんと生きていきたい。